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ひとり一人の声に耳を傾ける対話

「守るってなんだろう?」
開催報告
(2017年11月25日) 

 昨年の11月25日、はみんぐBirdさんと共催で2017年最後の対話の会を開催しましました。

 参加者は全部で10名。テーマは「守るってなんだろう?」

 社会で働く人の声、生活者の声。
 男の声、女の声。 
 子どもの声、大人の声。 
 避難を続ける人。 帰還しよかったと感じる人。 
 保養に行く人。行かない人。

(保養を)主催する人。

 多様な立ち位置の人たちの声を聞くことができ、そのことが、対話の内容をこんなにも豊かに深めてくれる。ということに気づかされました。

 たくさんの気づきに満ちた対話の内容を共有させていただきます。長文になりますが、福島に生きる人たちの現在の率直な思い、もしよろしければご一読ください。

 

 

 

 ※以下は話し合いの要約です。オレンジ色部分を読んでいくと短時間で読めるようになっています。


 ※拡散希望

<目次> テーマ「守るってなんだろう?」

 1.「どこか絶望している自分がいる」(働く人の声)

 2.「地獄の釜の底をみた」集団登下校をする子どもたち

 3.「家族を守りたい(自主避難者の声)」

 4.「(放射能汚染という)公害の中で生きる」(自主避難者の声)

 5.「生活者(母親)として話してみてもいいですか?(帰還者の声)」

 6.「自分で飛べるようになりたい(子どもの声)」

 7.「だんだん保養に行かなくなってきている(生活者の声)」

 8.「(放射能に)慣れていく・・・」(生活者の声)

 9.「歯車としてみんな同じように(子どもの声)」

 10.「保養よりも復興を優先してほしい(子どもの声)」

 11.「人権というものまで無視されている(カメラマンの声)」

 12.「自分ってサマショール(チェルノブイリ強制避難区域に住む人々)だな」(生活者の声)

 13.「分断が深まる中で・・・」私たちにできる事

 14.「大人が絶望している場合じゃない」

<参加者の紹介>

 ※プライバシー保護のため、お名前はイニシャルで表示しています。
 

 Nさん(2児の母親、県外に母子避難し5年前に帰還)
 

 Cさん(男性、中通り在住、奥さんと子どもが県外に自主避難中)
 

 Mさん(男性、教員、中通り在住)
 

 Jさん(男性、カメラマン、中通り在住)
 

 Lさん(男性、学校勤務、中通り在住)
 

 Oさん(男性、保養活動主催者、中通り在住、奥さんが県外に自主避難中)
 

 Bさん(男性、教員、中通り在住)
 

 Kさん(男性、保養主催者、関東在住)
 

 Rさん(男性、元教員、中通り在住)
 

 F (男性、ファシリテーター、県外在住)


<対話開始>

 1.「どこか絶望している自分がいる」(働く人の声)

Mさん(男性、教員、中通り在住)

 自分の住む街でこういう対話の場を作った時、ある人にこんなことを言われた。

 「ここにいる人たちは子供たちのことを守ろうと頑張っているけれど、自分自身の健康を守ろうという人が一人もいない気がする」。

 そういわれたとき、僕は子どもがいないので、教員という立場で生徒たちの健康などを考えてはいたのですが、こと自分の健康ということに関してはもうどうでもよくなっている自分がいて、もう別に長生きしてもしょうがないしみたいなニヒリズムみたいなところもどこかにあると気づいた。

 今日のテーマである「守るって何だろう?」っていうことを考えた時、自分のことはどうでもよくなってしまっているなぁということが、ふと思い浮かびました。


Jさん(男性、カメラマン、中通り在住)

 私は報道カメラマンじゃなくて、職人を撮るカメラマンだった。震災後、たまたま浜通りに行った時に、小学校2年生の女の子に「おじちゃん私大きくなってお嫁さんに行かれますか?」って聞かれた。その時返事ができなかったんです。言葉が出なくて。。。。。

 帰り道、運転しながら号泣しました。。。泣きながら自分として何ができるのか?この子たちに残せるものは何か?と考え続けた。そして自分はカメラマンだから被災地に入って福島の現状を伝えていこうと思った。以来、被災地に100回ほど入って取材を続けてきた。

 そうしたら、一昨年、突然お岩さんのように腫れあがってしまったんですね。病院に行ったらすぐ入院してくださいと言われた。血液による目の腫れということだった。白血球の数値が普通6000ぐらいなのが私の数値は65000ぐらいに跳ね上がっていた。このままでは命が危ないということで、点滴などをして10日ほど入院したけれども、原因はわからなかった。

 自分としては被災地の線量の高いところに入りすぎているからだなと思った。幸いその後、身体は何ともない。今福島には甲状腺ガンで大変な思いをしている子どもたちもたくさんいる。その子たちのためにも、取材を続けていきたいと思う。

 今70歳になって、あと何年できるか?いいところ取材ができるのはあと5年かなと思うけれど、福島で大変な思いをしている人たちの声を、身体が動く限り取材しつづけてゆきたい。


Lさん(男性、学校勤務、中通り在住)

 Mさんの自分の健康がどうでもよくなっているという話を聞き、俺もドキッとした。俺にもそういう所がちょっと前まであった気がする。

 俺もホットスポットを測定したり、撮影したり、Jさんのような活動をすることがあって、奥さんからは「線量の高いところに行かないでほしい」と言われている。「なんでそんな高い所にわざわざ近づくの?」と何度も聞かれた。

 俺としては「自分たちの身の回りにこんな線量の高いところがあるのだということを、伝えて、なんとかしたい」という思いで、動画を作ったりメルマガで発信したりしている。Jさんのような思いがある反面、少し前までは、どこか絶望している自分もいた気がする。やけになっているのとは違うけれど、自分の身体を守るという考えが麻痺して、ホットスポットに近づいても、怖いとか危険とか感じなかった

 自分自身の身体を守ろうという思いはないのか?という質問には私もドキッとさせられた。


Mさん(男性、教員、中通り在住)

 Lさんのいう絶望は自分の中にもあるのかもしれないけど、それだけでもない気がしていて、絶望を越えて突き抜けそうな予感もしている、線量の高い野生のキノコなんかも食っちゃってもいいかな?なんて・・・・・・突き抜けそうな感覚がある。

 2.「地獄の釜の底をみた」集団登下校をする子どもたち

Cさん(男性、中通り在住、奥さんと子どもが県外に自主避難中)

 僕なんかは自分の健康ということに関して言うと、原発事故が起きた直後私の住む街は20マイクロシーベルト以上あったと公式に言われているんです。さすがにその時は深呼吸していいのかな?とビビりましたけれど、時間が経つにつれて、麻痺してきている自分がいます。

 仕事柄、放射能の危険性についてよく知っている自分が、夏暑いと半袖と半ズボンでマスクもせずに過ごしてしまうし、日常生活の中でまあ大丈夫なんじゃないと、気にせずに過ごしてしまう。

 ところが、自分は当時、幼い娘がいて、娘のことになった瞬間に0.6マイクロどころか0.3マイクロでも許せない!となりました。子どものことになった途端に豹変するんです。

 あの時に僕が直感的に思ったのは、さっきJさんの「おじちゃん私お嫁に行けるの?」という女の子の話を聞いて思い出しましたけれど、新学期が始まって、子ども達が朝と夕方に集団で登下校をしている姿を見るとが出てきたんですよね。

 なんでかなーと思った時に、自分の中に慈悲心と言うか、それまでに抱いたことのなかった気持ちが芽生えた。

 赤の他人の子供たちの集団登下校を見て、「とてつもなく申し訳ない」と言うか、「本当にごめんね」と思いました。これはあの時、大人達はみんな思っていた気がするんですね。

 「この気持ちを、もっと表層に出していかないと。この気持ちを知っているのは福島県民だけでしょう!」と思う。よく新聞で風化させちゃいけないとか言いますけれど、何を風化させていけないかと言うと、そこだと思うんです!

 そういう意味ではこの守るって何だろうというテーマで言うと、物事には限度というものがあるでしょうと思うわけです。こんな状況になってまで、以前と変わりない日常をおくらせようとするのは、おかしいでしょと、誰もが思っていながら、社会を変えられないということに、みんなが気づいたわけです。

 その気づきを風化させない。5年経とうが、10年経とうが、福島の人達は言い続ける。例え、世界が耳を傾けてくれなくても、誰も相手にしてくれなくても、広島・長崎・水俣の人たちが何十年経っても言い続けているように、福島の人間たちも言い続けるということなんじゃないかなと私は思います。

 あの時感じた「あまりに罪深い」という直感を、いかに日本中・世界中の人たちと共有していくか?そこが大事だと思うんですね。我々は地獄の釜の底を見たとよく言われますけれどもそういうことだと思います

 3.「家族を守りたい(自主避難者の声)」

Oさん(男性、保養活動主催者、中通り在住、奥さんが県外に自主避難中)

 今日のテーマは守るということですけれども、私の近況を言うと、女房がいま県外に避難しています。

 昨年2017年3月31日に自主避難者に対する支援打ち切られましたが、僕たちは「避難を継続させてほしい」「住宅の無償提供を継続してほしい」と言って、移住もしない、帰還もしないという選択をしました。

 すると今年の4月に、不法占有であるという通知が来ました。家賃相当の違約金を払って、速やかに退去しなさいと、でなければでなければ法的手段に訴えるという通知でした。そして訴えられたので、11月に裁判所に被告として出廷しました。僕が直接の被告ではなく住んでいる女房が被告になりました。裁判は今も続いているんですが、僕がすごく印象に残ったのは記者会見でのやり取りなんですね。

 記者さんが「何で避難を続けているんですか?」という、とても初歩的だけど、根本的な質問をしたんです。僕はその記者会見の場にはいなかったんですけれども、自分がもし聞かれたらなんと答えるか?今日のテーマである「守る」ということに繋がると思うんですけれども、私は「自分たちの家族を守りたい」ということで避難を続けています。

 うちの家は中通りにあるんですが、空間線量は家の中でも外でも0.13~0.15マイクロシーベルトですが、庭のの放射線量は1万ベクレル/kgぐらいあります。家の中の埃を集めて測ると4700ベクレル/kgあります。なので、ここで暮らせるという状況ではないと思っています。

 もう一つは、今も避難を続けなければならないような危機的な状況があると思います。2号機にはデブリが残っていてそれが余震で落下したりしたら水蒸気爆発が起きたりするリスクもある。もう危機はないという状況にはないと自分は考えています。

 私のように危険と判断する考え方や、今は問題がなく安全という考え方いろんな考え方があって、僕はいいと思うんです。多様性を認めるということが大事だと思っています。でも国は多様性を認めてくれない。帰還ありき。そうでなければ移住せよ。国は避難者という状態を作りたくない。移住も帰還も避難の継続も、それぞれの選択を保証してほしいのに「避難の継続」という選択肢がないわけです。

 僕はそれは違うと思う。なぜなら国と東電に責任があるからです。加害者がこれはいいけどこれはダメだと決めるのはおかしいと思う。ということで、今は国に抗っている状況ですが、実際は女房なんかもすごくドキドキしながら抗っています。すごく不安だと言っていますね。


Lさん(男性、学校勤務、中通り在住)

 みんなの話を聞いていて私も思い出しました。原発事故後数年間は、通学路に放射性廃棄物を詰め込んだフレコンバッグが山積みされていて、そのすぐ脇を子供たちが、毎日毎日普通に集団登下校していた。マスクをしていない子供達もたくさんいた。普通だったら考えられない非日常が日常でしたよね・・・。


Cさん(男性、中通り在住、奥さんと子どもが県外に自主避難中)

 これは公害なんですよね。公害というのは過去にもこの国で何度も起きてきた。過去の公害に学ぶと、ひとたび公害が起きると絶対修復できない部分がどうしてもでてきてしまうことがわかる。

 公害の中で生きる市民はどんな生活を送らなければいけないのか?

 公害の中で家族や地域というのがどんな風に壊れて行くのか?

 公害からの再生のためにどんな風に苦しんで行くのか?

 過去の公害で繰り返されてきた苦しみを、今リアルタイムで福島の人たちが経験している。その知見を日本中・世界中の人たちに発信してゆき、警鐘を鳴らすことも、大事なんじゃないかと思う。

 4.「(放射能汚染という)公害の中で生きる」(働く人の声)

Lさん(男性、学校勤務、中通り在住)

 私は以前福祉の仕事をしていたんですが、仕事場には除染していない小さな畑があって、いろんな作物を育ててそれを調理して出していました。畑に出ると、お年寄りは本当にイキイキとするんですよね。採れた野菜も旨い!と喜んでくれて、美味しいし楽しいしとても豊かだなと感じました。

 でもをはかると、2000ベクレル/kgぐらいの放射能がある。採れた作物をはかると、3ベクレルぐらいの微量な放射能がある。とても複雑な気持ちでした。

 は利用者さんにとって大きな生きがいです。空間線量が0.3マイクロに下がった震災後4年目に、畑仕事ができないストレスを考えて、うちの施設ではに畑を再開しました。

 でも畑に出るのは私や、お年寄りだけではありません。利用者さんだけでは畑は維持できないので、職員総出で、若い女の職員さんも畑に出ます。これから子供を産むであろう若い女性に、2000ベクレルの土をいじらせてよいのか?本人に現状を伝えて、本人畑に出るか出ないか?判断してもらいましたが、それでも葛藤がありました。

 何が安全で、何が危ないのか?それぞれの生き方価値観にもかかわってくる問題なので、公害の中で生きるって、すごく悩ましいです。


Cさん(男性、中通り在住、奥さんと子どもが県外に自主避難中)

 僕の家族も、妻と娘県外の、かなり遠い所に自主避難していて、3月31日で住宅支援が打ち切られました。それ以降は家賃を支払っているんですけれども、この自主避難という問題は非常に難しいなあと思っています。

 僕は仕事場がこちらにあって、足繁く向こうに通ったりしているから、精神的な立ち位置としては、5分の3は福島で生活していて、5分の2は避難先というような感じなんですが、だんだん奥さんの意見と、自分の意見離れていくところがあります。

 僕自身どうしてもこっちに住んでいると奥さんに「そんなに(奥さんが言うほど)危なくないよ」と言いたくなってしまうんですよね。ところが、福島にいたらいたで、周りの人達に「そんなに危なくないよ」と言いたくない自分がいたりして、とってもそのバランスが取れない。

 もともとは奥さんは放射能のホのことも知らなかった。僕が放射能のことをとても心配し、奥さんに危険性を伝えてきた。だから、うちの嫁さんからしてみると、せっかくこんなに犠牲を払って、自主避難してきたのだから、この状態を維持したいと思っているし、その奥さんの気持ちも僕もよく分かります。

 だから無理なことは言わないけれども、心配しすぎて子供に過重な負担がいきすぎないように、常々夫婦間で話し合いながらやってきている。

 最初、私が自主避難を決断した理由は放射線の問題ですけれども、今その理由は違う方にシフトしてきていまして、子供の友達関係、人間関係を壊したくはないので、中学校に入ったらあと3年間は避難を続ける。高校に入ったらま3年間・・・と、そういう覚悟で、節目節目でどうするか?夫婦で話し合い、避難継続を決めてきました。

 でも、もしもこのまま大学まで県外でということになったら、俺は幼い時から成人まで、そのほとんどを離れ離れで暮らすことになってしまう。そういう先のことを考えると本当に嫌になるんです。

 でもそれもひっくるめて自己責任と言うか、覚悟してこういう行動を取っちゃったので、後悔はしていないんですけれども、非常に自主避難は厳しい選択を当事者たちに突きつけてきます。

 それもひっくるめて勉強だと思っています。

 でも、寂しいですよ・・・

 5.「生活者(母親)として話してみてもいいですか??(帰還者の声)」

Nさん(2児の母親、県外に母子避難し5年前に帰還)

 生活者として少し話してみてもいいですか?

 みなさんの話、私にもある部分だなぁと思って聞いていました。自分の健康がどうでもよくなってきたとか、絶望だとか、私自身絶望体質だと思うことがあります。

 Cさんは、自分のことはどうでもいいけれど、お子さんのことを考えるとスイッチが変わるとか、お父さんとしての話をしてくださったじゃないですか。私も母子避難をしていたので、母子を避難をさせて、福島に残っているお父さんの声を直に聞けて本当に良かった。

「寂しいですよ・・・」という声を聞かせていただき、すごく考えさせられました。

 あれ、何を言おうとしたのかな・・・

 そうだ・・・・。お父さんの声を聞いていて、子供のことがなければ自分のことはどうでもいいと、お父さんは思うんだなぁと意外に思いました。

 私は母親なので子どものことがなければと考えたことがない。いつもそばにいる。もちろん、これからは一人立ちさせるようになっていくけれども、小さなときは、母はいつもそばにいる。今は、子どものことがない自分を想像したことがないので、そこは、お父さんとお母さんのそこは違いなのかなと感じました。

 それから、子どもに負の側面を押し付けたくないとおっしゃっていたことも、すごく印象に残りました。私も似たところがあって、放射能のことを心配して、子どもたちにいろいろ言ってきた。でも子ども達はあっけらかんとしているんです。

 例えば、子どもが小学校に上がる時に通学路を測ってみたんです。そうしたら、うちの周りは、道路の真ん中より側溝の方が空間線量が低いんです。道路の真ん中は透水性舗装になっているので放射能が沈着して高いんですね。側溝の方が低いので「道路の側溝を歩きなさい」とずっと毎日言ってきた。いつも「端っこ歩け端っこ歩け」といって頭から角が出ているんですけれども、子どもたちはそれを面白がるんです。「ママはいつも怒っている」って、からかうように真ん中を歩いてみたりして、私は真剣だけれども子どもにはかなわないと言うか、負の放射能ということすらも、子ども達は自分の中に自然に取り入れて、遊びにしちゃう。

 でも私が見ていないとちゃんと側溝を歩いていたりするわけですよ。私の言葉はちゃんと伝わっているんだなぁって・・・

 子どもたちには側溝を歩く理由もちゃんと説明してきました。(あなたたちの通学路は)放射能が真ん中は高くて端っこは低いんだって。最初はそのことを神経質に伝えていました。嫌なことを嫌なこととして(負を負として)伝えていたんですけれども、子ども達はそれには潰されなかった。

 この6年間、神経質になって負の側面ばかり押し付けてきたけれども、子ども達にあ絶望は植えつけられなかった。あのたくましさを見て、大人である自分に、いくら絶望的な所があるからといって、子どもに絶望を押し付けちゃいけないなって、すごく教えられました。

 その一方で、子どもを被曝させたくないから、私は今も保養に行っています。甲状腺で、たくさんの子どもたちが大変な状況にあるという情報を聞いたりすると、不安がうわっと押し寄せてきて絶望的になることもあります。

 でも、最近はそこに巻き込まれちゃいけないなと思えるようになってきた。

 絶望の渦に巻き込まれてしまうと、子ども達の生きる力というのをちゃんと見てあげられなくなる気がする。であるで自分の力を弱めちゃう所があると思うんですが、そんな風に自分を客観的に見られる時もあるし、巻き込まれて体と心が折れちゃう時もある。

 最近、巻き込まれて落ち込んでいた時に、ある人に「どんな時でも子どもは前を見ているでしょ」って言われたんです。「過去を振り返って湿っぽくなっているのは大人だけだよね」って。

 子どもは私たち大人が考えられないようなものを作り出したりする。その希望の塊であるような子どもと一緒に生きてゆきたい現実の絶望的な側面を見て、それを伝えるのは大事だけれども、絶望押し付けにしてしまいたくない。「一緒に同じものを見ようぜ!」「一緒に育っていこうぜ!」というスタンスで私はいたい。そんな気持ちで毎日「行ってらっしゃい」と子どもを送り出したいと思っている。

 6.「自分で飛べるようになりたい(子どもの声)」

Bさん(男性、教員、中通り在住)

 全然別の話なんですけれども・・・
 うーん・・・・・・・・・
 ちょっと待ってみてください。うまく話がまとまらない・・・
 少し考えてからまた話します・・・


Fさん(進行役・ファシリテーター)

 ここはまとまらない話をしてはいけないという場所ではないので、関西のようにオチがなくても構わないんですよ。(笑い)

 聞いているだけでもいいですし、話したいことがあればオチがなくてもよかったら話してみてください。


Bさん(男性、教員、中通り在住)

 以前、ある子が言った言葉が心に残っていて、その子は不登校気味の子で、学校での生活になかなか慣れることが出来ず、つらい思いをしてきました。

 その子は、「ボクには学校という所は大きな飛行機の部品をつくっているところにみえる。」と言うんですね。「ボクはそういう部品ではなく、自分で飛べるようになりたい」と言うんです。

 その彼の言葉を聞いて、すごいことを言うなぁこの子はと思ったんです。教室の中では発達障害もあるとも診断されているんだけども、すごく真っ当なことを考えているし、そういうことを伝えてくれたのが僕にはとてもありがたかったし、とても反省させられました。

 これは今の「守る」というテーマや、福島の状況とは直接には関係ないのだないのですけれども・・・


F(進行役・ファシリテーター)

 そんなことはないですよ。みんなすごくうなずいて聞いていましたよ。

 いかがですか?まだ何も話していない方もいらっしゃいますが、強制ではないのですが、話してみたいことはありませんか?


 7.「だんだん保養に行かなくなってきている(生活者の声)」

Kさん(男性、保養主催者、関東在住)

 では僕からもちょっと。すごく大事な声を聞かせていただいているので、感じたことを伝えさせてください。

 僕の立場から聞いていて思ったのは福島の人たちの、こういう声を発信するということが、とても大切だなぁと思いました。

 僕は福島の子供達を受け入れる保養活動を行っているのですが、保養にはお金が必要です。僕たちは恵まれた環境にいて、廃校になった学校を自由に使うことができるので、一回60~70万円ぐらいですむのですが、他の団体は宿泊会場や食費に多額のお金が必要なので、100万円以上かかったりします。

 バス代が一番高くて、中型バスだと2往復で40万円ぐらいかかってしまうんですね。保養には、ものすごくお金がかかるてしまっているという現実があって、継続するのはなかなか大変です。

 そのお金をどういう風に集めているかと言うと、「補助金」と「募金」になります。割合から言うと募金の方が多いです。僕たちのところだと7割ぐらいが募金になります。

 保養活動をすると報告会を開くのですが、報告とともに定期的に振り込んでくださる方がいたり、いろんな形で集まってくるんです。そんな風に、実は福島の人たちをサポートしたいと思っている人達は全国にたくさんいるんです。

 でも、ここで話されているような、福島の方の状況とか、思いとかそういうのは一般的には全然伝わっていないのが現実です。そういうのがもっともっと表に出てくれば、社会的にも変わってくる可能性はあるんですけれども、なかなかここで話されているようなことは報道もされないですしね・・・

 全国の保養の活動をしている人たちが一堂に集まって話し合いをしたりもするんですけれども、福島の人たちの心情とか、普段なかなか聞けない、こちらからも聞きづらい、そういうところをみんな知りたいと思っている。

 福島の方たちが、実際のところどんな思いで生活されているのか?それがもっと共有されたら、助け合えるような状況が更に生まれる可能性があると思っています。


Lさん(男性、学校勤務、中通り在住)

 そうなんだぁ・・・そんなふうには思ってもいませんでした。

 別に、もうみんな、福島のことなんか忘れちゃっているんじゃないかなぁって思っていたので、そんなふうに言ってもらえてその言葉を聞けて本当に良かったです。

 私の知り合いの帰還したお母さんが言っていたんですけれど、自主避難から帰ってきて1年目2年目はたくさん保養に入っていたけれども、だんだん自分自身の参加費も続かなくなってきて、だんだん保養に行かなくなってきているって言っていました。

 保養に行かなかったら行かなかったで、家にいるからでできること、ちょっとプールに行ってみようかとか、家でケーキ作ってみようかとか、普通の生活が普通にできることが、やっぱり幸せだなぁと思ったり、その一方で子どもの健康のことを思ったら、やっぱり保養に行った方がいいのかなと思ったり、参加者の立場からすると、経済的な負担もあるので、正直続かないところ、悩ましいところもあるっておっしゃっていて…

 「これが生活に慣れるってことなのかなぁって、慣れって怖いなー」って言っていたのがすごく印象に残っています。

 そのお母さんは、ベラルーシ国家事業として保養を行っていることを羨ましいと言っていました。

 保養に行ける子とか、行けないことか、そういう差別なく、体験学習的に、みんな平等に行けるようになればいいなぁって思っているけれど、そういうことは学校では、なかなか言えないと言っていました。

 8.「(放射能に)慣れていく・・・」(生活者の声)

Nさん(2児の母親、県外に母子避難し5年前に帰還)

 実は今、子どもたちの学校のグランドに埋めた放射性物質の汚土染を掘り出して、中間保管施設に移動しています。子どもたちが、しばらくは校庭での体育はできないんだと教えてくれる。体育館で縄跳びをやったりマット運動をやったりしているんだと聞くんですが、帰還した当初だったら、そんな話を聞いたらビックリしていたと思うんですが、今は「あーそうなんだねぇ」と、驚かずに聞いている自分がいます。

 これが、慣れていく…、生活していくっていうことなのかなって思います。

 大きなことは、あんまり考えられないというか、生活者の視点で、私はいろんなことを捉えているんだなあということを、皆さんのお話を聞いて気づきました。

 お父さんたちはどうですか?

 生活者の視点として、お父さん達はどんな風に見ているのかな?というところを、お聞きしてみたいです。うちの主人に聞いても、「そんなの考えたことない」「男は仕事だ」みたいな返事しか帰ってこなくて。生活者としてもっと細々としたことに参加してよ!って、すごく思うんです。


Mさん(男性、教員、中通り在住)

 生活者としてかぁ・・・そう改めて聞かれるとどう答えていいかフリーズしちゃいますね???


Nさん

 私の視点から言うと、例えば主人はゴルフが好きで、ゴルフから帰ってくるとゴルフシューズを無神経に玄関で脱ぐんですが、私はその時に、ゴルフ場は除染されているんだろうか?って思うんですね。

 それで、靴を洗ってみたり、洗ったゴルフシューズは子供たちが絶対手の届かないところに隠して干したりする。でも主人は全然気にしてもいないし震災前と同じ生活をしている気がするんです・・・


Cさん(男性、中通り在住、奥さんと子どもが県外に自主避難中)

 僕も、(母子避難している)アパートに行くと、鍵開けた瞬間に、「はい」って雑巾を渡されるんですよ。
 スーツケースのローラーガラガラ引きずってきたものを、ちゃんと拭いてねーみたいな。
 あと、ぱっぱっぱっぱって、ちゃんと服の埃を払っておいてねーみたいな(笑)


Nさん

 わかるー。それって「あるある」だよねぇ(笑)


Cさん

 その前にせめて挨拶しろよって思うんですけれども


全員(笑い)


Cさん

 妻を自主避難させといて、そういうデリカシーがないんだなーって思う反面、放射性廃棄物みたいな扱いしやがってみたいな


男性陣(笑い)

 


Cさん

 そういう所って、直に子育てをしている妻と、仕事本位で生きている私との価値観の違いなんだろうなという風に、すごく感じますねぇ。


Nさん

 カチンとはこないんですか?


Cさん

 嫁さん、元々はっきり言うタイプですから、もう慣れちゃったっていうか。というより、尻に敷かれてんのかなーって思いますけどね。奥さんには口じゃ勝てないですからね(笑)


男性陣(うなずく)

 9.「歯車としてみんな同じように(子どもの声)」

Lさん(男性、学校勤務、中通り在住)

 うちの近所でも、汚染土の掘り起こしが始まっているんですが、奥さんから「今日近所のお宅掘り起こししてるけれど、表に洗濯物を干してもいいの?」って聞かれたんですね。俺も麻痺しているところがあって、「大丈夫だと思うよ」と答えて、普通に洗濯物を表で干したんです。

 後日たまっている郵便物を整理していたら、掘り起こしを伝える手紙がでてきて、そこに、〇日~〇日まで掘り起こしをしますので表に洗濯物は干さない方がいいですよみたいな、注意書きが書いてあったんです。そこまできちんと心配して書いてくれていることにビックリしたんですが、そのいち文を見て俺やっぱり麻痺しているんだなーって思って、冷や汗をかいたことを思い出しました。

 今日みんなの話を聞いていて、Oさんが最初に言ってくれた、多様性を認めるってとても大事だなぁって思いながら、それってすごく難しいことだなぁとも感じていました。

 国がそもそも多様性を認めてくれていないから、Oさんの奥さんはとても不安な中で裁判をしています。だから、国が多様性を認めてくれるとがすごく大事なんですけれども、国だけじゃなくて、俺自身も多様性を認めることが大切だと思うんです。

 でも、なかなか多様性を認められない自分がいる。

 例えば、正直に言うと、私、対話の会で自主避難者の方と話をするとき、いつも緊張するんです。さっきの、洗濯物を表に干すか干さないかということ一つをとっても、いろんな考え方の違いがあって、自分の「表に干してもいいんじゃない」という考え方を、自主避難をしている人たちに話したら、どんな風に思われるんだろうって、心配する自分がいるんですね。

 「洗濯物を表に干してもいい」なんて、Lさんも随分変わっちまったなぁ・・・なんて思われてしまうんじゃないかなと不安になって、さらけ出すのを怖がる自分がいるんですけれども、思い切ってさらけ出してみると、相手もさらけ出してくれて、「いろんな違いがあっていいじゃん」みたいに、お互いに気づき合えるというか、共感しあえる体験を、対話の会で何度もしてきたんですね。

 なので、Bさんがおっしゃってくださった、発達障害と言われている子の「私は大きな飛行機の歯車ではなく、自分自身で飛べるようになりたいんだ」という声は、すごく心に響きました。

 俺も「多様性なんてガタガタ言わないで、歯車として、みんなと同じように働きなさい」みたいな教育を受けてきたので、多様性を認めるのに慣れていないし、人と違うのが正直怖いんですね。

 みんなの話を聞いて、自分が、多様性を認められないカラクリにはまっていたことに、気がつきました。


Rさん(男性、元教員、中通り在住)

 私の孫も発達障害と診断されたことがある。その時、私は孫の姿を見て、心配すぎだと思ったけれども、専門家の診断だと思うと不安もあった。

 「発達」って、いろんな人に出会い、いろんな経験をして揉まれながら「発達」していくものだと私は思っている。実際うちの孫は、それから何年も経ち、ずいぶん成長したなぁ…たくましくなったなあと感じている。

 昔はちょっと変わった子がいたとしても、その子たちを集めて、何か病名をつけるみたいなことはしなかった。

 ラベリングをしなかったから、周りもそういう目で見ることはなかったし、子どもも色々ともまれて成長してゆくうちに、一人前の大人になっていったんじゃないかという気がするんですよね。

 今は分類が発達して、いろんな病名(ラベル)ができちゃったから、逆に、それに当てはめてしまうと言うか、この子は発達障害じゃないかとラベリングしてしまう傾向があるんじゃないかなと心配しているんですがどうでしょうか?


Bさん(男性、教員、中通り在住)

 そういう傾向はあると思うんですよ。本当に細かく診断基準というのが決められて、医療の中で診断されたものを教育が参考にして行くという流れがある。でも、本当に子供にとって何が一番幸せかと言うと、必ずしもラベルを貼って、型にはめるということではないんじゃないか。

 それよりも、その子が何を訴えたいのか?何を表現したいのか?ということをね、見て行くことが大事だと思うんです。

 さっき言った子も何年間かの中で本当に成長したんです。いろんな経験をする中で、さっき言ったような考え方を、自分自身で獲得していったんだと思います。自分は遅れているとか違っているというのは感じているけれども、その子は発想がすごく面白いし、それでいいんじゃないかというか、多様性を認めあえたらいいんじゃないかと思うんです。

 忖度という言葉が流行ったけれども、今の社会は、自分の思いは別にして、人に合わせられる人が優秀みたいな所がある。

 ですが、その子は「自分は合わせられない」と言うんですね。合わせられないところで苦労してきて、でもその中で自分自身の考えを深めてきた。人間的にはすごい発達ですよね。逆に言うと我々というのは、忖度的な空気に合わせらてきたんだと思います。


Rさん

 今の話し、すごく感動しました。

 10.「保養よりも復興を優先してほしい(子どもの声)」

Lさん(男性、学校勤務、中通り在住)

 前に「保養よりも復興を優先してほしい」という福島県の高校生の言葉を聞き、ビックリしたことがある。その子は、福島の復興の力になりたいと、夢をもって語っていた。

 「風評被害の払拭」「福島のグローバル化」「福島の魅力を増やす」「みんなを元気にしたい」「これからの福島を変えられるように頑張ります」

 その子の言葉は希望に溢れ、素晴らしいなぁと感動した。Nさんが、子どもは希望の塊と言っていたけれど、本当に希望の塊である子どもたちを心から応援したいなぁと思った。

 でも少し違和感があって、それは何なのだろうと何度も考えた。そして、この子の言葉には福島が抱える負の側面が、ほとんど入っていないということに気がついた。

 たとえば、今、県内には甲状腺ガンにかかる子どもたちが193人もいて、孤立して大変苦しい思いをしていることなどは、まったく触れられていなかった。

 子供は、すごく柔らかだし、素直だし、希望の塊なんだけれども、今の社会は、素直な子どもたちに、半分しか見せていないような気がするんですね。正の側面も、負の側面も、両方をちゃんと見せてあげて、素直な子どもたちが、「じゃあどうしたらいいんだろう?」という風に考えるように導くのが、本当の教育じゃないかと思うんですけれども、今は半分しか見せていない気がするんです。


Cさん(男性、中通り在住、奥さんと子どもが県外に自主避難中)

 その話を聞いて僕が思いつくのは福島大学に後藤忍さんという教員がいるんですね。彼は環境工学の専門家なんですが、彼が最近、福島のコミュタン福島と、ウクライナにあるチェルノブイリ博物館の中で語られている言葉を抽出してお互いを見比べるテキストマイニングっていう手法で分析したんですね。

 コミュタン福島というのは、子ども達に放射線教育を施すために巨額の予算を作って使って作った施設です。

 その分析結果によれば、チェルノブイリ博物館では、「放射線障害」とか「被爆」とか、遺伝子が破壊されて起きる「健康被害」とか、どちらかというとネガティブな言葉が非常に多く使われていたそうです。
ところが、コミュタン福島では、今Lさんが言われた子どもの言葉にあるような、「復興」とか「元気にしたい」とか、そういうポジティブな言葉が圧倒的に多く使われていて、ほとんどお互いが両極端であることがわかったそうなんです。

 言葉を抽出して行くと、そこの施設が誘導しようとしているひとつの方向性が見えてきます。

 そのどっちが良いとか、悪いとかではなく、多様な現実を、大きな視点で、俯瞰して見学できるような、誘導型ではなく、提案型の施設であるべきじゃないかと、後藤さんは提案しているんですけれども、それは非常に示唆に富む提案なんですよ。

 でも、さっきの子どもたちの言葉を読むと多様性ではなく今の社会が誘導しようとしている一つの方向性が見えてくる。

 それにうまく乗っかれる子ども達は褒められるんだけれども、そうじゃない子供たちは疎外されていく・・・そんな印象をうけました。

 11.「人権というものまで無視されている(カメラマンの声)」

Jさん(男性、カメラマン、中通り在住)

 実は先日沖縄の方と会う機会があって、琉球新報や沖縄タイムスを見せていただいたんですが、アメリカの基地の問題について、沖縄の地元紙「反対の意見」「賛成の意見」多様な声をきちんと取り上げている

 それに対して、福島県の地元紙である、福島民友や福島民報は、原発や被ばくのことに関して、沖縄のように多様な意見を取り上げているかと言えば、全然取り上げていないんですね。「復興」とか「きずな」とか、ポジティブな側面ばかりを取り上げ、負の側面は全部「風評被害」であると書いている。新聞が片方の側面しか伝えないから、福島の人たちは分からないんですよ。

 先ほど、OさんやCさんの奥さんが自主避難を続けながら大変な思いをしているという話がありましたが、これだって、なぜこの人たちが自主避難をしなければいけなかったのか?そこがちゃんと伝えられていないから、みんな誤解されて、苦しい思いをしているんです。

 自主避難は「本人の判断でしたのだから、裁判でもなんでもすればいい」と言い放った元大臣などもいましたが、本当は自己責任ではなく、国が責任をもって避難をさせなければいけなかったんです。根本の所がごまかされているんです。

 3.11直後に福島県が県民に対してどんなごまかしをしたのか?

 朝日新聞の特集連載であるプロメテウスの罠などにも書かれていますが、放射能の被ばく状況を予測するスピーディーの画像を含むメールが、県のオフサイトセンターに86通届いていたのに、そのうちの65通が消去されてしまっていたんです。


 放射能の航空モニタリング技術など日本より数段上のテクノロジーを持つアメリカは、震災直後から福島の詳細な放射能のモニタリング調査を行っていました。日本がもっていない正確な測定情報を根拠にして、アメリカは原発80km 以内にいる人たちはみんな避難せよと勧告を出し、自国民を避難させた。

 アメリカのデーターはすべて日本政府にも提供されていたし、アメリカの判断も伝えられていた。けれども福島県民にはそれとは逆の判断が伝えられ続けたし、スピーディーの情報すら表されず、原発周辺の市町村の住民は、高濃度のプルームが流れていく方向に避難し続けました

 福島の80キロ圏内の子ども達はあの時本当は避難させなければいけなかったんです。

 アメリカだけでなく中国だって、中国大使館は被災三県と茨城県に住む自国民を避難させるために、数十台ものバスをチャーターして自国民を避難させようとしました。現に、私の友人の中国人も本国に避難しました。

 それに対して、福島県民というのは、人権というものまで無視されているんですよ。本当だったら、保養だって、ベラルーシのように国がお金を出して責任をもって行うべきなんです。

 12.「自分ってサマショール(チェルノブイリ強制避難区域に住む人々)だな」(生活者の声)

Lさん(男性、学校勤務、中通り在住)

 Jさんのお話を聞いて、知り合いの帰還したお母さん「棄民って言葉があるけれど、私は、捨てられた中でもプライドを持ってやるべきことをやって生きたい。」と言っていたのをふっと思い出しました。

 そのお母さんはシュタイナーの「大人は子どもにとっての環境の一部です」という言葉を大切にしていて、「母親である私自身が整うことが一番大切だと思う」って言っていました。

 お母さん自身もリフレッシュと言うか、良い精神状態でいることが、子どもにとっても一番なのかなあと思うから、私は家で子供と一緒にクッキーを焼いたり、大切な人に一緒にお手紙を書いたり、そういう子どもとの時間を、今は一番大事にしている。

 でも、事実として知りたいという気持ちもあるので、甲状腺ガンのこととか、被ばくのこととか一生懸命伝えてくれる、Jさんのことは心から応援しているって、そのお母さんは言っていました。

 すごく心に残る一言があって、そのお母さんは、「なんか自分ってサマショールだな」っておっしゃっていたんです。

 サマショールっていうのは、チェルノブイリ近くの危なくて住すんじゃ駄目って言われている場所に、帰ってきたおばあちゃん達のことで、「私はここで生活するんだ」って、自分達で耕して、果実種を作ってみたりして、測ってみたらとんでもなく放射能の高い果実種だったりするんですけれど、味は美味しいし、おばあちゃん達は元気で、「私は幸せよ」とかおっしゃっている。

 そのお母さんは、サマショールのおばあちゃん達の気持ちも分かる気がするし、それが多様性を認めるってことなんじゃないかと思うと言っていました。

 避難する人も、移住する人も、帰還する人も、多様性を認めあうって、そう言うことなのかもしれないですね。


Mさん(男性、教員、中通り在住)

 そっか。分かりました。

 僕、一番最初に、自分のことを守らなくなったと言ったのはそれに近いんだなーってわかりました。

 僕、「復興」とか「安全」とかにこだわる人の話には耳を傾けず、放射能や被爆のことを心配している人の声にばかり耳を傾けてきたんですが、実際の自分の振る舞いはどうなんだって言われると多分そうではなかった気がします。

 「安全」「危険」どっちなんだって思う自分がいて、危険だって言われればかちんとくるし、安全だって言われればもっとムカつくしみたいな、本当の自分はどっちなんだって考えると、とても振れ幅があったんですけれども、それが「ここでもろとも全部食ってやる」みたいな所にだんだんと定まってきたかなって思うんです。

 今のお母さんの話を聞いていて、とても腑に落ちました。

 ただ同時に、地獄の釜の底を見たことを、なかったことには絶対したくないと思うんですね。

 僕の周りにいる沢山の人から、自分と折り合いがつかないという話をしょっちゅう聞くんですね。震災前は原発がある暮らしに乗っかていたのに、事故が起こったら、原発反対という自分に、折り合いがつかないと…。

 僕もここで生きていくっていう覚悟は決めつつも過去に自分たちが何をやって来たかっていうことと、ちゃんと向き合ってゆきたい。

 

 僕たちは、震災があったかたこそ、皆必死に考えたし、一人一人の中で「どう生きるか?」って哲学をいっぱいしたと思うんですよ。

 自分が解体されつつ、自分は在るというか、それを僕らはひょっとしたら経験できたのかもしれないとは思いますね。

 スクラップ&ビルド。壊して、ちょっとずつ作ってって、今の自分はそこにいるのかなって思います。

 13.「分断が深まる中で・・・」私たちにできる事

F(進行役・ファシリテーター)

 というところで、そろそろ終わりの時間も近付いてきたので、一人ずつ、語るもアリ。パスするもありですが、振り返っていきたいと思います。


(何人かの振り返りを紹介します)


Oさん(男性、保養活動主催者、中通り在住、奥さんが県外に自主避難中)

 基本的に私は放射能危ないと思ってるし、家族も逃がしている。どこかに落ち着く先があるかと言うとちょっとそれも見えてこないところがあって、行ったり来たりという形で、多分転々としながら死んでいくんだろうなっていう気がします。居住とかではなく、行ったり来たりする流れる暮らし方もあって、私は多分その方に行くんだろうと思っています。

 ここに残る人も、でる人も、行ったり来たりする人も、お互いが多様さを認め合うことが大事だと思っいます。ただし国と東電がしたことの責任の所在だけは絶対に譲らない。なぜならこれからどんなことが起きるか分からないからです。

 復興には前提というものがあると僕は思います。前提は、まずは放射能がないということです。それから、地域よりも個人の復興が先にあるということです。復興を語るには、まずは、どんな選択も許されて地域の復興よりも個人の復興が尊重されて、その前提が必要だと思います。

 福島で暮らすこともOKだし、行ったり来たりすることもOK だし、時々保養に行くこともOK。特に今それを思うのは、前は保養を主催することに対して、批判とか反対はなかったんです。ところが今は、保養をやることに関して、真っ向から否定されたりバッシングを受けるという状況があります。これまで保養に出してきた親から言われるとか、そういうとても悩ましい状況が起きています。

 僕は、不安を煽って金を集めて保養を主催する詐欺師だと、ネットで100件ぐらい叩かれたこともありますし、そういう流れの中で今まで仲間と思ってやってきた人たちが被爆はダメだけど、風評被害ゼロも大事だということを言っていてズレというのがすごく出てきています。

 だからとても難しいんだけれどもいろんな考えを持つ人たちと協働してゆくのが大切だと思うので、ここで行われているような対話というかねお互いの言葉に耳を傾けあうということが大事なのかなという風に思い始めています。例えば「放射能は問題ない」「放射能は危ない」とかね。そういう両極端の人たちの対話の場が開けたらいいなあと思っています。

 どちらかがどちらかを言い負かすディベートではなく、立会演説会みたいなものですよ。テーマを10個ぐらい考えて、放射能についてどう思いますかという問いかけに、全然問題ありませんという人がこっちにいたとしたら、次に危ないと思うと思う人が意見を言って、僕らはそれをただ聞くというような。

 そこらへんからスタートしないと、分断が深まる中で、今の福島の状況はとても難しくなっている。


Nさん(2児の母親、県外に母子避難し5年前に帰還)

 今日の守るって何だろうっていうテーマは、自覚を迫られる大事な言葉をたくさんもらったなーって思います。

 Jさんの「福島県民は人権を無視されているんですよ。保養には行くべきです」という厳しい言葉を聞いて、前だったら傷ついたり自分を責めたりしていたんですけれども、Jさんは、自分を責める必要はないんだということも含めて、伝えてくださるので、すごく愛情をもって鍛えられているというか、厳しい言葉を言ってもらっている。それで私はまた考えを深めることができる。そんな風に守ってもらっているんだなぁーって、そんな風に思えるようになりました。

 それからKさんとかは、保養で実際守ってくださっていて、うちの子どもはまだオムツをしている頃に、Kさんにお風呂に入れてもらったりとか、育ててもらっている感覚があって、母親が自分一人で子どもを守っているという感覚ではなくって、時空を超えて、空間も越えて、ここにいるすべての人に、守られているって感じます。

 小さな声を大事にしてくれる、この対話の会は、本当にリラックスしていられる場所と言うか今日ここにいるすべての人に守られているんだなということをすごく感じました。

 福島の理不尽な部分と言うか、闇の部分と言うか、そういう部分を改めて自覚できたし、守られているんだなぁということも自覚できたし、神様とか、祈りとか、そういうものにもすごく守られているなーって最近思うんです。

 それから、奥さんが自主避難してこっちにとどまっているお父さんの声を聞かせてもらって、我が家も放射能のことになると、私がこんなに一生懸命守っているのにどうしてお父さんはそこを無神経に侵してくるのみたいなところがあったんですが、お父さんにも守られているからこその今があるんだなってことも自覚することができました。


Cさん(男性、中通り在住、奥さんと子どもが県外に自主避難中)

 私は、こういう対話という場は絶対必要だと思っています。

 特にこの中通りは対話が大切になると僕は思います。というのは中通りは経済圏であり行政圏だから、避難区域に相当するような状況でありながら避難区域にならなかった。そこの市民であるがゆえに、僕たちもゲームに加担しなければいけないということで、体半分は常識の所に合わせるんですけれども、残り半分は許せないんですよねやっぱり。

 自分の中に両者がいるんですよね。市民として振る舞わなければいけない自分と、それをかなぐり捨ててでも対処しなければいけない、直視しなければいけないものがありつつも、そこに目を背けなければいけない自分もいて引き裂かれている

 そこの部分をお互い共有できれば・・・。そういう仲間がいるんだということがわかれば、どれだけ救われるかわからない。なので、こういう対話の場は絶対必要だと思っています。

 14.「大人が絶望している場合じゃない」

Mさん(男性、教員、中通り在住)

 今日は守るって言うことが、僕の中で色々と変わった気がします。一番印象的な言葉っていうのが「生活者の視点」という言葉が一番大きくて、お母さんたち女性の視点って、すごく大事だなと思いました。

 私も常に妻に「生活者の視点」って言われるんです。「循環させろ」って言われるんですよね。洗濯やったら干すまでとか。タンスに入れるまでとか。


女性陣(苦笑)

 ほんとほんと


Mさん

 洗濯って洗濯機を回すことだけが洗濯じゃないって言うか、その視点で考えると、お母さんの言葉っていろいろ考えさせられて、一つはNさんが言った、子どもの強さって言うんですかね。

 子どもは大人が心配して守ろうとすることすら乗り越えていくっていうのがなるほどなーと思って、それをもっと信じていいのかなという風に思いました。

 というのが、僕、水俣に公害の勉強をしに行った時に、第1世代で戦った方々の家に泊めていただいた。そこのお父さんやお母さんはすごい闘士だったんです。でも子どもには水俣で自分たちがどういう風に戦ってきたか、一切教えなかった。子どもには偏見の目をもってもらいたくないから一切語らなかったと言うんです。

 だから子どもたちも大学に入るまで、自分の親が何をやっていたかは全然わからなかった。大学に入って親から離れて、はじめて、水俣病って何だろう?って考えた時に、自分の親って何してきたんだろうって、ふっと気づいて、自分で調べ始めた。そうしたら、とてつもない大きな問題と戦ってきた人たちだったんだということに気づいて、そこから自分の生き方が180度変わったというんです。

 水俣に帰るつもりはなかったのに、水俣に戻って親の後を継ぐ決断をしたという話を聞いた時に、親は一切語らなかったけれど、子どもたちは、ずっと親の背中を見て育ったんだなぁと思ったんですね。

 子どもは言葉で伝えなくても、大人たちの背中を見て、自分で感じとって、自分の力に変えていく。そういう可能性も含めて、守るって言うことなんだっていう風に思いました。

 今日はありがとうございました


F(進行役・ファシリテーター)

 ありがとうございました。今日は、いつにも増して、多様な立ち位置、多様な声、多様な次元の話や、多様な空気を共有させてもらったなぁと思います。

 個人的に今日感じたことは、大人がやることやらなきゃいかんなということですよね。子どもに希望を見るだけではなくて、自分の中にいる子どもに希望を見ると言うか、自分の中にある希望や光をに、ちゃんと向かっていく必要があるんだと思いました。

 Bさんが伝えてくれた、発達障害とレッテルを貼られる子ども。それはみんなの中にもいるし、僕の中にもいるし、一人一人の中にいると思う。

 そういう、他の人と同じことができないと言うか、社会に適応できないというか、あるいは適応しない自分を、大切にする必要があるなと、あらためて思いました。

 それと同時に、国が実際にしていることはとんでもないことかもしれないんですが、その国に生きる一人一人が、こうやって顔と体と声を付き合わせて話し合ってみると、俺たち以外と、捨てたものでもないなと、改めて思いました。

 国とか、社会の空気にあずけてしまった、自分の力を取り戻し、ひとり一人がプライドや自覚をもって生きること。そして、相手のプライドや自覚を尊重すること。今日は、多様な意見と共存する処方箋をみなさんから教えてもらった気がします。本当にありがとうございました。 


Lさん(男性、学校勤務、中通り在住)

 Oさんは保養先で、子供達自身に3.11の時の経験や思いを話し合う場を作っていらっしゃると聞いています。

 今日の話を聞いて、そんな風に、子どもたち自身の声に、ちゃんと耳を傾けていくっていうことが、すごく大事なんじゃないかなと思いました。

 前に紹介した、「風評被害の払拭」「福島の魅力を増やす」「みんなを元気にしたい」そんな希望にばかりあふれ、福島の負の部分にはまったく触れていない子どもの言葉にビックリしました。

 でも、その声を否定するのではなく、尊重するところから始めたいと思いました。

 今日、お母さんが言っていた、子どもたちの柔らかさと言うか、可能性を信じ、子供たちの声に率直に耳を傾け、子供達同士がお互い違う声を聞きあったり、様々な大人の背中を見たり、そうするなかでMさんが言っていた、水俣の子どもたちのように、子どもは逞しく成長して行く。

 多様性の中でこそ、人は成長してゆく。子どもも大人も、みんな可能性に満ちあふれていると信じたいです。

 だから大人が勝手に絶望してる場合じゃないなと思いました。絶望的だなんて決めつけているのは、大人だけと言うか、俺自身だったんだなと、みなさんや子どもたちに教えてもらいました。

 今日は本当にありがとうございました。




 2018年1月27日&28日「ひとり一人の声に耳を傾ける対話」連続開催のお知らせ

 「多様な人たちとの対話をすることの大切さ。」

 今回の対話で得た「気づき」を2018年につなげてゆくために、次回の対話の会は、福島市と郡山市で連続開催したいと思います。
 新しい場所で、どんな出会いが生まれるのでしょうか?
 どなたでも参加できますので、初めての方も、お気軽にお立ち寄りください。

①テーマ〈語れること〉から〈語れないこと〉までを語る会

【開催日】2018年1月27日(土)10:00~17:00

【会 場】チェンバおおまち・福島市民活動サポートセンター

(福島市大町4-15チェンバおおまち3階)


②テーマ「2018年はどんな年にしたいか?」 

【開催日】 2018年1月28日(日)10:00~17:00(昼食休憩12:00~13:00)

【会 場】安積総合学習センター(サンフレッシュ郡山)

(福島県郡山市安積町荒井南赤坂265)

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