対話の会開催報告

テーマ「守るってなんだろう?」が生まれた理由

 11月25日(土)

 はみんぐBirdさんと共催で、今年最後の対話の会を開催しましました。

 テーマは「守るってなんだろう?」 

 これまでの話し合いで、ひとりひとりの中に芽生え始めた思いを言葉にしたら、こんなテーマが生まれました。

 以下に、9月、10月の対話の会で話し合われた対話の内容を

 ダイジェストにまとめたものを紹介いたします

 

 何故「守るってなんだろう?」というテーマが生まれたのか?

 みんなの率直な思いを、よかったら共有させてください。

(11月25日の開催報告は後日アップする予定です)

 

 最近の対話の会には、普通のお母さんや、元行政の関係者や、専門家の方や、教育関係者の方など、バラエティに富んだ様々な方が参加してくださっています。

 前回、教育関係者の方が多く参加してくださった時「子どもたちを被曝のリスクにさらしている」ということが話題になりました。

 震災から7年がたち、中通りの多くの場所で空間線量は0.23マイクロ以下に下がっています。

 そんな中、田んぼで農作業とか、様々な自然体験がどんどん再開されています

 しかし、公園には1マイクロのホットスポットがあちこちにある・・・

 田んぼや畑の土にはいまだに何千ベクレルも放射能がある・・・

 そこで農作業とか自然体験をさせても良いのか?

 自然体験をしてする被ばくのリスクと、多様な自然体験ができないリスク

 子どもたちにとっては、どちらのリスクが大きいのか?

 私たちは子どもたちを守れているのか?そんな事が話し合われました。

 

 

守れているという意見>

 

 「被ばくのリスクは小さい。子どもたちから多様な自然体験を奪うことのリスクの方が大きい。全体的に見て子どもたちにとってベターな判断をしている。子どもたちを守れている。」

 

守れていないという意見>

 

 「福島県以外で、児童公園に1マイクロのホットスポットがあれば大騒ぎになり立ち入り禁止になるのに福島県では騒ぎにもならない。そういう中で私たちは子どもたちに自然体験をさせている現実がある。守れているとはとても言えない」

 

 

 

 

 「守れている」「守れていない」と意見が分かれる中で、守れていないと言われると責められているように感じる、感情の対立が起こってきました。

 参加者に、県外に避難しながら、子どもたちを被爆から守るために訴訟を起こし、戦い続けている闘志の方がいて、その方から、

 「子どもたちを守れていない」

 とハッキリ言われ、反発心が芽生えた人と、「よくぞ言ってくれた」という人に、感想が真っ二つに分かれました。

 

 意見の代表的なものを紹介すると・・・

 

 

<よくぞ言ってくれたと感じた、お母さんの意見>

 

 「ここにいると抑圧されている感覚がある。子どもたちに思いっきり自然体験させてあげたいのに、自然の中は除染されていない。放射能があるから我慢させないといけない。ここから抜け出したい。保養に行くと解放される。戻ってくると、首に縄をつけられている感覚がある。自由になりたいと常に感じている」

 

<反発心を感じた、先生の意見>

 

 「福島県内にいる教育者たちも、何もやっていないわけではない。少しでも子供たちを被爆から守りたいと、できる限りのことはやっている。でも、守りきれていない所も沢山あって、負い目がみんなの中にある。」

 

 「リスクは放射能だけではない。自然体験の不足、体力の低下、あらゆる要素を比較検討しながら、今できる最善の方法を模索している。」

 

 「我々は簡単には答えのだせない場所に住んでいる。白か黒かはっきり言えない。日常はグレーばかり。福島県全体、職場全体が自然体験は再開可能という空気につつまれている時、自分一人だけが反対と叫んでもどうすることもできない。そんな現実もある。」

 

 「確かに白黒はっきり決める事や、訴訟することや、闘うことは格好良いけれど、そこまで踏み切れないグレーの中で悩み続ける、思考し続けている人もいる。それもありではないか。そんな我々に対し「守れていない」と白黒を突き付けられると、つらくなる。この両者は、どうやったらわかり合えるのか?」

 

 

 

 

 

 議論が袋小路に入る中で、女性参加者から、こんな一言が出され場の空気がガラリと変わりました・・・

 

 

<女性参加者の言葉>

 

 「守れていないという闘志の方自身にも、たくさんの負い目があるのではないか。守り切れなかった子どもや住民への贖罪として、自分自身に向けて「守れていない」と厳しい言葉を発し闘い続けているのではないか。」

 

 

 

 

 この言葉をうけて、1人の男性からこんな言葉が紡ぎ出されました・・・

 

 

<男性の言葉>

 

 「3.11後、私もいろんな負い目を背負ってきた、その負い目を「これは私の手には負えない。どうしようもない」と、あきらめて箱にしまってきた。でも、闘志の人は、負い目に対し、今も真正面から向き合っている。 その姿を見た時に、箱にしまったはずの私の負い目があぶり出されてきて、闘志の人に反発したのだと思う。闘志の人は、昔被曝とともに戦った仲間だったのに・・・。こうやって昔仲間だった人が別れてゆく「分断」が起こるのだと気づいた。」

 

 「大事なことは、一人一人が自分の負い目と向き合うことではないか。負い目をしまった箱を開けて、負い目を虫干しする。そして、闘志の人のように、負い目に主体的に向き合って適切な手をうってゆく。闘志の人がしている役割を、自分自身が演じてみるのが大事なのではないか。」

 

 

 

 

 

 

 そして、ひとりひとりが、自分自身の負い目を語り合う、貴重な時間が訪れました。

 

 例えばある先生は・・・

 

 3.11後 年間1ミリシーベルトという安全基準が、突然20ミリシーベルトになり、校庭が2マイクロシーベルトある中で学校が再開され、多くの子供たちを被曝させた負い目を語ってくれました。

 

 そのことを後悔し、先生たちにみんなで話し合いたいと提案したら、「逆に聞くけどあの時学校を始めなかったり、給食食べさせなかったり、現実問題それができたのか?みんなと話し合って何が変わったのか?」と言われたそうです。

 

 

<先生の言葉>

 

 「職員で対話したら学校遅らせられたのか?遅らせたとしてもそれが何になったのか?」

 

 「でも、もしもお互いの考えや立場が違ったとしても、話し合えば「違うこと」が共有できる。みんなの違いが共有されれば、みんなでどうしたらよいか考えることもできたのではないか。」

 

 「実際には、話し合いは行われず、僕は、この人たちとは一緒にやれない。自分の授業の中だけでやればいいと思ってしまった。それが僕の最大の負い目。もっと同僚のことを信頼してもっと同僚たちと話をしてゆけば、ちがかったんじゃないか。」

 

 

 

 

 

 

 この「負い目の虫干し」の一つの方法として、もしもその時同僚と話をしていたらどうなっていたのか?試しに模擬で話し合いをやってみようということになりました。

 

 以下は対話の会参加者で話し合った、模擬の話し合いです。

 

 

模擬の話し合い

 

先生

 「20ミリはあり得ない 理想は1ミリ。でも1ミリを超えてはいけないとなると、みんなここから避難しなければいけなくなる。せめて5ミリか?」

 

 

Aさん

 「まずは、こうやって先生が相談しにきてくれたことがうれしいなぁ」

 

Bさん

 「国は20ミリまで大丈夫って言っている。国を信じている親御さんも沢山いる。その親御さんのことを先生はどう思いますか?」

 

 

先生

 「異常事態だからと言って基準を20倍に引き上げるのはおかしいでしょう」

 

 

Aさん

 「文科省が公表した被ばくマップによれば、中通りのあちこちの年間被曝線量が10ミリシーベルトになっている。1ミリが基準となったらみんな避難しなければならない。そんなことは現実にできない」

 

 

先生

 「だからせめてもの5ミリなんです」

 

 

Bさん

 「学校は公的な存在。俺たちは国が逃げろと言わない限り逃げれない。逃げた先の受け入れ先はどうしますか?避難している間のお金はどうしますか? 1ミリ5ミリと自分の学校だけの基準作っても、他の学校と整合性がとれなくなってしまう。」

 

 

先生

 「僕らは生徒たちに自分で考えなさいと言っている立場 先生が自分で考えずただ国の基準に従って生徒の信頼が得られるのか? 自分たちは生徒の健康を第一にするんだという姿勢を示すことが大事では?」

 

 

Aさん

 「例えば5ミリをラインとした時、10ミリのエリアの中にある野球場で野球の地区大会をやる時、自分の学校だけ参加できないなんてありえるのか?」

 

 

Cさん

 「国が20ミリと言っているのに、いち教員の私たちが話し合ったところでどうにかなるのか? この話し合いに価値があるのか? ちょっとした絶望感がある」

 

 

先生

 「確かに国がいっていることは受け入れなければならないかもしれない。おもてだって5ミリとは言えないかもしれないけれど、5ミリを目指したいという姿勢をみんなで共有できたならば、例えばそこから少しでも減らそうとか、様々な教育活動の取り組み方が変わってくると思う。ここで何にも話し合いもしないで、お互いどんな不安があるかも共有しもしないで、国から20ミリと言われたから大丈夫としてしまったら、そういう姿勢すら生まれないんじゃないですか」

 

 

Dさん

 「今の言葉、すごくわかります」

 

 

Cさん

 「そこを大事にしたいんだよね」

 

 

(模擬の話し合い書き起こし終わり)

 

 

 

 

 

 この模擬の話し合いの後、この先生は「3.11後初めて、言葉にできなかった思いを言葉にして、語ることができたような気がします」と言ってくれました。

 負い目はあきらめなければいけないことではなく、虫干しし、上書きすることが可能だということに、気づくことができたそうです。

 しかし、それが可能だということを、多くの人は知らないのかもしれない・・・

 負い目は凍り付いたまま何百年も冷凍保存され続ける必要はないということを、みんなに伝えてゆきたい。

 闘志の人のように、負い目に主体的に向き合って適切な手をうってゆくことが、みんなにもできるのかもしれない。

 そんな対話の会で発見したことを、草の根で分かち合ってゆきたいと思い、11月25日の対話の会のテーマを「守るってなんだろう?」にしました。

 来年度も、対話の会は様々なテーマで話し合いを行っていく予定です。

 どなたでも参加できますので、興味のある方、一緒に対話してみませんか♪

 

 (11月25日の開催報告は後日アップする予定です)