水俣から福島へ(当事者の声に学ぶ旅)



 9月2日の「甲状腺ガン当事者の声とその背景に出会う会」にむけて、スタッフとして以前より知りたいと思っていたことがあります。

 「水俣」や「広島」・・・
 公害や被曝によりたくさんの被害者が出た地域では、当事者の声は市民からどう受け止められてきたのか?
 原発事故から7年目を迎える福島では、当事者の声がほとんど表に出てくることはありませんが、それは水俣や広島でも似た状況がおこっていたのか?

 不十分なレポートではありますが、旅先の東京の図書館で調べたことを皆さんと共有してみたいと思いました。
 もしよかったお読みください。


 「水俣病50年―過去に未来を学ぶー」西日本新聞社水俣病取材班よりの抜粋

 水俣病は、チッソが工場排水として海に垂れ流した、有機水銀に侵された魚介を食べて起きる中毒症。だが、発生当初は伝染病と忌み嫌われた。そして被害は漁村地区で多発した。

 最初の悲劇だった。

 患者は雨戸を閉め切り家に閉じこもった。口と鼻を覆い家の前を走り抜ける人々。その雨戸に石が投げ付けられた。共同の井戸も使えない。親戚の行き来も途絶えた。

 漁村地区、水俣市茂道で生まれた佐藤英樹は言葉を継ぐ。
 「もう隠して隠して。おれの地区にはそげん病人はおらんて。『魚が売れんこつなる』『生活できんごなっどが』ていう雰囲気で具合が悪うなっても、よう言い出せんやった。

 患者は、隣近所からの厳しい視線にさらされ、息を潜めた。

 そんな隣近所にも被害が広がる。そして被害者たちが原因企業・チッソに補償を求めるようになると、「町部」と「漁村部」の地域対立の様相を帯びた。第二の悲劇だった。

 チッソは水俣の「城主」だった。市民には「城主の犯罪」を信じたくないという気持ちが強かった。親類縁者がどこかでチッソとつながっている運命共同体のような地域にあって、非難はチッソにではなく「弱った魚を食べたからたい」と、患者に向かった。
 「患者さん、会社を粉砕して水俣に何か残るというのですか」「そんなに嫌なら水俣から出て行け」。混迷する水俣病問題への不安と嫌悪感、そして補償金へのねたみ。患者への言葉は感情的に、先鋭的になってゆく。

 新聞の広告チラシには、チッソと国の責任を問う訴訟を起こした患者グループ行動を誹謗、中傷するビラと、当然ながらそれに反論する患者グループのビラが、連日新聞に折り込まれた。

 ”ビラ合戦”の日々であった。患者の行動を批難するグループが出したビラはおびただしい数に上るが、その言い分は煎じ詰めると、「チッソを潰す気か」「補償金目当ての行動」という内容である。中には「ニセ患者」呼ばわりするものや、「水俣から出てゆけ」というひどいものもあった。

 1977年に西日本新聞社がおこなった水俣市民意識調査によれば約4万人の水俣市民の約半分(54.4%)が、水俣病患者やその家族の運動に対し「行き過ぎである」「とてもついていけない」と否定的な解答を行っていた。

 「患者は市民の意見を代弁してくれる」「運動は理解できる」と肯定的な回答したのは、水俣市民の4分の1(27%)に過ぎなかった。

 それが、2006年に行われたアンケートでは、まったく逆転する。

 否定的な意見が33%だったのに対し、患者の運動を肯定的にとらえる意見が53%と、水俣病の当事者に注がれる視線は、否定から肯定へと、60年の時をかけて逆転した。

 例えばこんなエピソードもある。
 水俣病発生から60年目の2004年。最高裁が水俣病被害拡大の防止を怠った国の責任を認定。環境省が緩やかな基準で幅広く被害者救済を認める「新保健手帳」を発行した。

 水俣市の対岸にある牧島に住む男性は2006年に「新保健手帳」を申請した。妻(70)には前年十二月ひと足先に届いた、医療費が免除される新しい手帳。「もうじき自分にも」と期待が募る半面で、一抹の後ろめたさも感じる。
 「過去」を思えばなおさらに。男性には水俣病の患者を激しく差別した過去があった。

 一九七〇年代の初頭、対岸の水俣では患者認定の大量申請の時代を迎えていた。対岸の牧島にも学者や支援者が訪れ、申請や検診を勧めて回った。

 男性も何度か誘われた。そのたび玄関先で追い返した。「魚が売れんくなる。いらんことすっな」

 船やいけすなどに一億五千万円も投資して、ハマチやタイの養殖を始めたばかりだった。水俣では、水俣病のために漁業が壊滅したと聞いていた。

 「万一こん島で病気が出たて話が広がったら、そりゃ大変て思ったからな」。まなざしが陰った。

 弟たちと連帯保証を結んで資金を借りはじめたハマチやタイの養殖。従業員も三人雇用。莫大な元手がかかったが事業は順調に軌道に乗り、年に六、七千万円も水揚げた。

 養殖業は牧島の主産業だった。沿岸に無数のいけすが浮かび、昭和五十年代にはマダイの生産量が国内一にもなった。

 イメージダウンによる漁業への打撃。町が、漁協が、水俣病をタブー視した。

 「あげんとは水俣病じゃなか」。男性も、患者認定の申請に手を挙げる人に、容赦なく批難の言葉をなげた。「何もせんでプラプラしよるじゃなか。」救済を求めるものは生活を脅かすもの、破壊するものに映った。「患者を出さない」暗黙の了解が、長い間島を支配した。
 そんな島の空気が、徐々に変化し始めた。輸入水産物の激増。消費の落ち込み。魚価は上がらないのに、燃料費やエサ代のコストは雪だるま式に膨らむ。ここ10年ほどで、島を覆い尽くすようにあったいけすが目に見えて減っていた。

 男性も四年前に養殖から手を引いた。

 「自分もこんななるなんてなあ。あんころは思わんもん」。

 震える手をさすりながら、今、当時を悔やむ。

 仕事を辞めてから、めっきり体が弱った。手の震えがひどい。箸をまともに握れず、自分の名前さえ震えがひどくて書けなくなった。年金生活に医療費負担が重くのしかかる今、新保健手帳は助かる。でも…

 手帳を申請した後、かつて白い目を向けた人に道で会った。自分も手帳を申請したことを明かそうかと迷った。だが、言い出せなかった。「聞かれれば答えたけど…自分からは言えん」

 「患者じゃなか」とさげすんだ相手が今、自分のことをどう思っているのか。

 「時代が変わったとです…」そう男性はつぶやいた・・・

(抜粋終わり)

水俣病の歴史を振り返りあらためて思うのは、初動の対応の重要さです。

 


 「水俣病は一年で終わっていた事件」。
 ある支援者はこう指摘します。

 被害が出た段階で徹底調査が行われていれば・・・
 排水が疑われた時点で操業自制の決断があれば・・・
 当事者の声にもっと真摯に耳を傾けていれば・・・
 被害はもっと早くに、限定的に収まっていたはずです。

 その教訓は現代に(福島に)生きているのでしょうか。

 

 チェルノブイリ子ども基金の活動を通して、チェルノブイリの子供たちの保養活動に関わってきた、小寺隆幸氏は、福島に関するこんな手記を書いています。

 「手記より抜粋」
https://www.iwanami.co.jp/news/n20526.html

 3.11後、甲状腺がんの手術を受けた150名以上の日本の子どもたちは、今どうしているのだろう。

 転移への不安と、一生薬を飲み続ける重荷から自由にはなれない子どもたち。

 病気は原発事故のためではないと言われ、「ではなぜ? 自分が悪かったの?」と悶々と問い続けていないだろうか。手術したことを友だちにも知られたくないとひっそりと息をつめて生きていないだろうか。

 私は、広河隆一さんが1991年に設立した「チェルノブイリ子ども基金」に関わり、ベラルーシとウクライナで甲状腺がんを手術した子どもと親に何度も会ってきました。

 みんな健康の不安、子供への影響の不安などを抱えながら結婚し子どもと暮らしている方もいれば、若くして亡くなった方もいます。

 それでも、子ども基金がこの間行ってきた甲状腺がんの子どもたちだけを招いた保養、そして甲状腺がんの手術をされた方とその家族(おつれあいや子ども)の保養を通して、お互いがつながり、不安と希望を語り合う中で生きる意欲をはぐくむ姿を見てきました。

 一方、福島では、放射能の不安を口にすることさえ風評被害をあおると批難される物言えぬ社会の中で、被災者は孤立させられています。手術後の子どもたちをつなぐために結成された「311甲状腺がん家族の会」もなかなか広がりません。

 日本でもいま最も大事なことは、孤立させられている手術後の方々がつながる場であり、その声に耳を傾け、受容する人々の存在です。

 甲状腺がんが原発事故によるものとは考えにくい、という言辞は科学的に虚偽であるばかりではなく、甲状腺がんの方々にそれは自己責任だと言い、口を封じ、孤立化させ、生きる希望を奪っていく恫喝であり犯罪です。

 その方々が今置かれているこの状況の中で、勇気をもって声をあげられた方の声に耳を傾けることがこの状況を変える第一歩です。

 原発事故の被害を子どもたちに押し付けてしまった私たちの責任が、今問われています。

(手記の紹介終わり)

福島では、原発事故による放射能と甲状腺がんの因果関係は考えにくいと公で言われています。

 その中で、当事者の方たちは、どのような思いでいるのでしょうか?

 因果関係をきちんと認めてほしいという声と、因果関係は考えにくいという声。

 白か黒かをハッキリさせようとすると、まるで罠ように張り巡らされた、分断の蜘蛛の糸にからめとられてゆく。

 答えがだせないグレーの深い霧の中で、命を削るのではなく、輝かせて生きるにはどうしたらいいのか?みんなが懸命に模索し続けている気がします

 異なる立場の声にも耳を傾けながら、自分で判断し自分で行動してゆく。

 分断するのではなく、多様な意見を持つ人たちともつながってゆく。

 母の声に学び
 子の声に学び
 市民の声に学び
 専門家の声に学び
 当事者の声に学ぶ

 互いの声から、命を輝かせる、勇気と気づきをもらいあう場になることを願って、9月2日と3日に2つの会を開催しました。

 開催報告をご覧になりたい方はこちらをご覧ください。